藤井能三南嶋間作高峰譲吉松村謙三林 忠正嵯峨寿安吉田忠雄堀田善衞

 藤井能三さんが、19歳になったときのことです。
「これから、お前に家の仕事を任せようと思う。この能登屋の商売は、たくさんの人のおかげで、うまくいっているのだ。だから、もうけたお金は一人じめせず、地域の人のために役立てるように、心がけてくれ」
 能三さんは、先祖代々営んできた回船問屋の仕事を、お父さんから任されたのです。
 お父さんの三右衛門さんは商人として仕事に取り組みながら、一方では、自分のお金で波よけ工事に取り組むなど、地域のために力を惜しまなかった人でした。
 そんな父の姿を見て育った能三さんは、力強く答えました。
「私は、できるかぎりの努力をして、きっと町のため、ふるさとのためにつくします。どうぞご安心ください」

「ああ、世の中はどんどん変わっているんだ!」
 仕事で神戸に来た能三さんは、神戸港に蒸気船が走り、たくさんの物資でにぎわう様子を目にして、おどろきの声を上げました。
 能三さんの胸に、ある思い出がよみがえってきました。
 およそ10年前、12歳のときのこと――。
 能三さんは、伏木沖に煙をあげて走る船(汽船)を初めて見たのです。強くて速そうな西洋船(ロシアの軍艦)でした。
 当時、日本で使われていた船は、北前船と呼ばれる一枚帆の和船だったので、大型の西洋船を見て、能三さんは本当におどろいたのでした。
 今、目の前の神戸港は、あのとき見たような西洋船でいっぱいです。
 この神戸のにぎわいに比べて、ふるさとの伏木港はどうだろう――。
 能三さんは、伏木の港を思いうかべ、大きなショックを受けました。
「和船しか入れない伏木の港は、新しい世の中の動きから取り残されてしまう。何とかしなければ…」
 この日から、能三さんは「伏木港を整備して、立派な港にする」という大きな目標に向かって、人生を歩み始めたのでした。

 ところが、村の人たちは、能三さんの話をまったく聞いてくれません。
「そうだ。村の人たちに、もっといろんなことを知ってもらおう。新しい時代に生きていく子どもを育てよう。よし、まず伏木での学校づくりだ!」
 こうして、能三さんは学校づくりの準備を始め、自分の家を教室にして学校を開きました。地域の発展を考え、自分のお金をおしみなく使って努力する能三さんの姿に、人々の考えも少しずつ変わっていきました。
 次に、能三さんは、東京の大きな船会社の社長である岩崎弥太郎という人に会いに行きました。
「伏木港を航路に加えて、あなたの会社の汽船を伏木に回してください」
「伏木のような小さな村には、積み込む荷物なども少ないだろうから、とても無理だと思う。だが、もし次のような条件なら、船を回してもいいだろう」
「その条件とは、何ですか」
「一つは、積み込む荷物をすぐに集めること。二つ目は、荷物が船の半分にならなかったら、運賃を弁しょうすること。三つ目は、すぐに灯台を建てることだ」
 それは、とても難しい条件でした。
 しかし、能三さんはこの条件を受け入れました。どんなことだって、最初からあきらめるわけにはいかない――。
 能三さんは、さっそく伏木に帰り、荷物集めと灯台づくりのためにかけまわりました。
 その結果、とうとう2せきの西洋型汽船が伏木港に入港したのです。約束の灯台は、まだ完成していませんでしたが、能三さんの熱意に感心した岩崎さんが、船を回してくれたのです。
 伏木港には、たくさんの人が集まり、驚きと喜びの声をあげました。
「これで北陸の米をいつでも他の地方に送れる。伏木の港もにぎやかになるだろう」
 能三さんは苦労も忘れ、願いがかなった喜びいっぱいで船の入港を見守りました。

 汽船が伏木港に入港し、航路が開かれた後も、能三さんの夢はまだまだ終わりませんでした。
「大きな船が岸に横づけできるように、港を掘り下げ、岸をしっかり築く工事をしたい」
 能三さんは、国や県に何度も何度も築港工事を願い出ました。しかし、願いはなかなか取り上げられませんでした。
 その間に、能三さんは、経済の急な変化のため、家や土地などすべての財産を失ってしまいました。それでも、能三さんは少しもくじけず、伏木港の工事を願い続けました。
「日本からヨーロッパに行くには、伏木港からロシアのウラジオストクへ船で渡って、シベリア鉄道を通るほうが近道である。ヨーロッパの国々と貿易をさかんにし、世界と日本を結ぶ役目をする新しい港を、ぜひ伏木に造るべきだ」
 能三さんは、地域のことを思い、新しい時代に合う近代的な港の建設を夢見ていたのです。能三さんの熱意はだんだん人々に伝わり、ようやく伏木港開港について協力してくれるようになり始めました。
 こうして、伏木港は開港場(外国と貿易できる港)として、一人前の港とみとめられることとなり、大がかりな築港工事が始められました。そして、伏木港は、3000トン級の大型汽船がらくらくと横づけできる近代的な港になったのです。
 能三さんが築港の願いを出してから、すでに35年もの年月が流れていました。
 能三さんは、自分の一生をかけて、伏木に近代的で立派な港を築いたのでした。

●藤井能三さんのミニ年表
1846年   伏木村に生まれる
1865年 19歳 父・三右衛門から家の仕事を受けつぐ
1873年 27歳 伏木小学校を開く
1875年 29歳 伏木港に汽船を入港させるために、東京へお願いに行き2せきの汽船が入港する
1877年 31歳 洋式灯台が完成する
1878年 32歳 伏木港築港を県に願い出る
1881年 35歳 伏木に船会社をおこす
1891年 45歳 「伏木築港論」を書く
1900年 54歳 庄川改修工事、伏木港築港工事が始まる
1913年 66歳 亡くなる

            10月伏木港築港工事完成祝賀会が開かれる

富山県ひとづくり財団の全面協力をいただき、同財団刊行の「夢を追いもとめて」の文章を記載させていただきました。