藤井能三南嶋間作高峰譲吉松村謙三林 忠正嵯峨寿安吉田忠雄堀田善衞
 
「おお、起立商工社という貿易会社が、フランスのパリで開かれる万国博覧会の通訳を募集しているぞ。これだ!」
 東京大学の学生だった林忠正さんは、目の前に、急に道が開けたような気持ちになりました。
 日本が鎖国をやめ、世界の国々と交流するようになった明治時代、忠正さんは、何とかしてヨーロッパへ行きたいと考えていました。
 しかし、その当時、ヨーロッパは簡単に行けるところではなく、なかなかチャンスに恵まれなかったのです。
「新しい時代には、新しい生き方が必要だ。ようし、このチャンスを活かしてパリへ行って、自分の生きる道を見つけるぞ」
 忠正さんは、大学でフランス語と理学(科学)を勉強していたので、フランス語の通訳なら、うってつけです。忠正さんは、さっそくこの仕事に応募しました。
 パリに行けるのなら、大学をやめてもいい。通訳の仕事が臨時の仕事でも、かまわない。とにかく、パリへ行きたい――。
 こうして、忠正さんはあこがれていた花の都パリへと、旅立ったのです。

 フランスに渡った忠正さんは、万国博覧会の通訳の仕事が終わっても、パリの街に残りました。そして、フランスへ来た日本人の通訳や、翻訳などの仕事をして、細々と暮らしていたのです。
 そのうち、忠正さんは、起立商工社の若井兼三郎という人に誘われ、日本の美術品を扱う仕事をするようになりました。
 忠正さんは、自分が美術品の商売をするようになるとは、考えたこともなかったのですが、若井さんから美術品の知識や仕入れ方などを教わるうちに、夢中になっていきました。
「こんなにおもしろい世界があったとは!」
 忠正さんは、夢中になれること、つまり自分の生きる道を見つけ出したのです。そのうち、忠正さんは、会社をやめて独立することを考えるようになりました。
 今までの経験を活かして、自分にできることを思い切りやってみたい――。
 こうして、忠正さんは、パリに小さな美術品の店を開きました。最初は、わずかな輸入品を売る小さな商売でしたが、今までの仕事で知り合ったお客さんが来てくれたおかげで、店をだんだんと大きくすることができました。
 また、一緒に退社した若井さんと商売をすることになり、若井さんが日本で仕入れた美術品を、忠正さんがパリで売るというシステムをつくり、更に大きな事業を行うようになったのです。

 忠正さんがフランスに渡ったちょうどそのころ、 ヨーロッパでは、日本の美術品が注目され、熱烈に愛好されるという動きがありました。
 この流行は「ジャポニスム」と呼ばれ、多くの画家たちに大きな影響を及ぼしました。日本の美術を初めて見た西洋の画家にとって、特に浮世絵の大胆な構図や、美しい曲線、明るい色彩は、衝撃的だったのです。
 忠正さんにとっても、この「ジャポニスム」の流行は、大きな驚きでした。
 1880年ころの日本は、「文明開化」の時代で、西洋諸国に追いつこうと一生懸命で、自分の国の良さを積極的に認めようとする人が、少なかったからです。
 ああ、日本の美術の良さを分かってくれる人がこんなにいる。自分も、しっかり美術を研究して、正しいことを伝えなければ――。
 忠正さんは、日本の美術に関する知識を学び直す一方で、当時パリで活躍していたモネ、ドガ、ルノワールといった、世界的に有名な画家たちと親しくつきあいました。
 そして、彼らが望む安藤広重や葛飾北斎などの浮世絵を、数多く日本から取り寄せて紹介したのです。
 また、日本美術を研究していたエドモンド・ゴンクールさんから協力を頼まれ、浮世絵の説明などに、全面的に協力しました。
 実は、ゴンクールさんは、日本の美術を詳しく研究するために、日本へ行きたいと願っていましたが、高齢のために果たすことができず、困っていたのでした。
 忠正さんは、浮世絵に描かれているものや使い方などを、ていねいに説明しました。ゴンクールさんは、忠正さんの説明をもとに、『北斎伝』や『歌麿伝』という本を書きあげ、浮世絵を広く普及させました。
 このように、忠正さんは「ジャポニスム」の流行の中で、浮世絵などの日本美術の芸術的な評価を高めることに、深く関わったのです。

 忠正さんは、ヨーロッパに日本の美術を広めることに関わっただけでなく、逆に西洋の美術も日本に紹介しました。
 日本の画家の中で最も有名な画家の一人で、「近代洋画の父」といわれた黒田清輝さんの才能を見出し、 さまざまな支援をしたのも、忠正さんでした。
 また、印象派と呼ばれるグループをはじめ、さまざまなすぐれた洋画を日本に紹介し、西洋画の本格的な展覧会を開催しました。
「日本の絵画教育にも、西洋の画法を取り入れるべきだ」と訴える運動をしたこともありました。
 このように、忠正さんは、一生を通じて、日本とヨーロッパを、美術を通して東洋と西洋の文化を結ぶという、大きな仕事を成し遂げたのです。

●林忠正さんのミニ年表
1853年   高岡町(現在の高岡市)の長崎家に生まれる
1870年 17歳 富山藩士の林太仲の養子となる
1871年 18歳 大学南校(現在の東京大学)に入学 する
1878年 25歳 万国博覧会の通訳をするため横浜からパリへ出発する
1884年 31歳 パリで美術店を開く
1886年 33歳 パリから帰国する
1898年 45歳 1900年記念パリ万国博覧会の事務官長になる
1906年 52歳 亡くなる

富山県ひとづくり財団の全面協力をいただき、同財団刊行の「夢を追いもとめて」の文章を記載させていただきました。