藤井能三南嶋間作高峰譲吉松村謙三林 忠正嵯峨寿安吉田忠雄堀田善衞
 
 中国は、広い国土と豊富な資源をもつ大きな国だ。 アジアの平和のために、日本と中国はお互いの立場を認め合って、協力しなければならない――。
 そう考えた松村謙三さんは、日本と中国の関係を良くするために、中国を訪問しました。太平洋戦争が終わってから14年後、謙三さんが76歳のときです。
「日中の国交回復は、われわれ両国の子孫のためにも、実現しなければなりません。ぜひ、友好的な関係を築きましょう」
 謙三さんは、心を込めて中国の人々に訴え続けました。しかし、中国側の反応は、とても厳しいものでした。
「日本は、中国を敵だと考えている!」
「日本はアメリカと一緒に、中国を侵略するつもりではないか」
 当時、日本はアメリカと結びつきを強め、台湾との関係を大切にしていました。ところが中国は、台湾と対立していたため、このような日本の態度に激しく反発していたのです。
 それに、中国はかつて日本に侵略されたことがあるので、人々はなかなか謙三さんの言うことを信じようとはしませんでした。

 謙三さんは、中国の指導者たちと激しい議論を何度も繰り返しました。
 話し合いを重ねるうちに、中国の指導者たちは、 謙三さんは信用できる相手であると認めるようになっていきました。謙三さんの日中国交回復にかける願いも、ますます強くなっていきました。
 もう70代も後半に入った私にとって、政治家としてこれが最後の大きな仕事になるだろう。なんとしても成功させねば…。
 日本と中国が心から分かり合える日が来ることを信じて、謙三さんは、二度目の中国訪問を決意しました。
「まず、貿易を行いましょう。そして、だんだん日中両国のつながりを広げていくのです」
 謙三さんの熱意あふれる説得とねばりに、中国の周恩来首相や陳毅副首相の心が動きました。
「分かりました。あなたを信じましょう」
 ついに、謙三さんの真心が通じたのです。中国政府はようやく心を開き、大きな期待をもって、歩み寄ってくれたのでした。

 謙三さんが、やっとの思いで中国とのパイプをつないだと思っていたそのころ――。
 日本政府は、謙三さんの思いとは、まったく逆の方向に進み始めました。アメリカと協調して、はっきり中国を敵だと見なすような態度をとり出したのです。
 もともと、日本政府の中には、謙三さんの中国訪問に反対する人が多くいました。謙三さんを批判したり、嫌がらせをしたりする人もいたくらいです。
 それでも、謙三さんは自分の信念を曲げず、中国とのつながりを深めようと努力していたのです。
 しかし、いくつもの輸出の約束が、どんどん取り消されていきました。少しずつ盛り上がっていた日中友好ムードも、一転して冷えてしまいました。
 このままではいけない。何とかしなくては!
 謙三さんは自分の命もかえりみず、中国を訪問し、国交回復を訴え続けました。
 しかし、中国の日本政府を非難する声は、以前よりもっと厳しく鋭いものでした。中には、日本の首相に対して悪口を言う人もいました。
 その悪口を聞いたとき、謙三さんは、はっきりとこう言いました。
「日本人の私の前で、日本の首相を非難することは、断じて許しません」
 周恩来首相をはじめ、その場にいた中国の人々は、はっと息をのみました。
 中国に敬意をもちながら、同時に言うべきことはきちんと主張し、堂々とした態度で接する謙三さんの様子に、信用のできる人物だということが改めて分かったのです。
 謙三さんと周首相の間には、いつしか、お互いへの尊敬と信頼が芽生えていました。

「生きて帰れんかもしれんな」
 87歳になった謙三さんは、かなり体が弱っていました。それでも謙三さんは、5度目の中国訪問に旅立ちました。
 中国と日本のきずなは、今はまだ細く弱い。しかし、絶対にこのきずなを断ってはいけない――。
 謙三さんの名前は、今や、中国の一般の人々にも広く知られていました。謙三さんに会った人たちは、口々に、
「古い友人として、最も尊敬し、信頼できる人だ」
「なんと立派な人だろう」
 と、親しみをこめた笑顔で迎えました。
 中国から帰ってきた後、謙三さんの体はめっきり弱ってしまいました。そして、ついに、家族や友人に見守られながら、静かに一生を終えました。
 日本でも中国でも、多くの人々が謙三さんの死を悲しみました。
「松村死すとも、日中永遠和解の灯は消さじ」
 日本の国民は改めて、日中の国交回復について考えました。
 そして、謙三さんが亡くなった次の年、ついに日本の首相が中国を訪問したのです。謙三さんが長年願い続けてきた日中国交回復が、ようやく実現したのでした。

●松村謙三さんのミニ年表
1883年   西砺波郡福光町に生まれる
1906年 23歳 早稲田大学を卒業し、報知新聞社に入社する
1912年 29歳 新聞社をやめ、福光町に帰る
1917年 34歳 福光町議会議員になる
1919年 36歳 富山県議会議員になる
1928年 45歳 衆議院議員になる
1959年 76歳 中国を訪問し、周首相と会談する
1970年 87歳 5回目の中国訪問
1971年 88歳 亡くなる
1972年   (日中国交回復が実現する)

富山県ひとづくり財団の全面協力をいただき、同財団刊行の「夢を追いもとめて」の文章を記載させていただきました。