藤井能三南嶋間作高峰譲吉松村謙三林 忠正嵯峨寿安吉田忠雄堀田善衞
 
 南嶋間作さんの人生が大きく変わったのは、26歳のときでした。
 東京の大学を卒業し、ふるさとの新湊にもどってきた間作さんは、教師として力を尽くしていました。
 ところが、突然、お父さんが亡くなったのです。 間作さんの家は、回船業を営んでおり、当時、北前船と呼ばれる和船で、米や肥料などの物資を運んでいました。
「今日からおまえが、家業を継ぐのだ」
 間作さんは、お祖父さんの言葉にとまどいました。自分の一生を教育に捧げたい。しかし、家の仕事を放っておくわけにはいかない――。悩みぬいた末に、間作さんは決意しました。
「これが、私に与えられた運命なのだ。やるからには、全力で取り組もう。回船業がもっともっと発展するように力を尽くそう」
 しかし、これから家業の回船業を継いでいこうとする間作さんにとって、衝撃的な出来事が起こりました。
 親せきのおじさんが経営していた北前船の商売が失敗し、倒産したのです。
 当時、新湊のほとんどの回船業者は、小規模な和船を使っていたので、大型汽船をそろえている日本郵船などの大会社には、とても太刀打ちできず、倒産する会社が数多くありました。
「まず、大型汽船を使う商売のやり方を、学ばなければならない」
 間作さんは、大きな決意を胸に抱いて、上海へと向かったのです。

 北前船による回船業の時代は終わった。これからは、大型汽船の時代なのだ――。
 大型汽船を使った商売の方法を学び、新湊に戻った間作さんは、二つのことに挑戦しました。一つは、大型汽船を購入すること、もう一つは、海外航路を獲得することでした。
 当時、政府は、外国との競争に勝つために、大会社にだけ手厚い援助と保護を与えていました。このため、間作さんには、政府からの援助はありません。
 間作さんは、親せきや同じ回船業者をまわって、大型汽船を購入するための資金を出してくれるよう頼みました。さらに、大阪の豪商・阿部彦次郎さんという人に会って、協力をお願いしました。
「大型汽船を購入して、定期的に物を運ぶための航路を開きたいのです」
「よし、君にかけてみよう。お金を貸そう」
「ありがとうございます。力の限り、がんばります」
 間作さんの情熱、先を見通した考え、強い決意に、阿部さんは心を打たれたのでした。
 間作さんは中国に渡り、大型のドイツ製汽船「チャイナ号」を購入し、「奈古浦丸」と名付けました。
 奈古浦丸が新湊にやってくると、今までの小さな和船とは比べものにならないくらい、大きくりっぱな汽船の姿に、新湊の人々は驚きました。
「この船の姿に負けないくらい、大きな商売をするぞ!」
 マストを見上げる間作さんの心は、これからの商売にかける決意でいっぱいでした。

 よし、次は、外国へ物を運ぶための航路だ――。
 間作さんは勇気と情熱をもって、新しい航路を切り開くことに挑戦しました。
 当時、海外への航路は、日本郵船などの大会社が独占していました。それに対して日本各地で生まれた小さな海運会社の船は、社外船と呼ばれていました。
 間作さんは奈古浦丸に続き、志賀浦丸と有磯浦丸を購入し、社外船として、中国・廈門港との間を定期的に行き来することを実現させたのです。
 それまでの社外船で、大阪と朝鮮半島(仁川・釜山)を結ぶものはありましたが、中国との定期航路に乗り出したのは、間作さんの船が全国で初めてでした。
 間作さんは、大会社との競争に負けないように、知恵を絞りました。
「そうだ、いろいろな港に寄るようにすれば、もっともっと利用しやすいはずだ!」
 当時、大会社の定期航路は、決まった港にだけ寄るという仕組みでした。それに対して、間作さんは荷主から頼まれれば、どこへでも寄港することにしたのです。
 そのやりかたは、利用する人々にとても喜ばれ、間作さんの事業は、どんどん大きくなっていきました。
 しかし、間作さんは、外国にばかり目を向けていたわけではありませんでした。
 日本海沿岸では、小さな汽船のほうが小回りがきくことに目をつけて、北前船ほどの大きさの汽船を中心とした、新湊汽船会社も立ち上げたのです。
 間作さんは、地元のことも大切に考え、自分の利益よりも、地域産業の発展に尽くそうとしたのでした。

 間作さんの事業は軌道にのり、ますます広がっていきました。
 事業が大きくなるにつれて、間作さんは、立派な船乗りが足りないという問題を抱えました。
 物資を安全に早く目的地へ届けるには、汽船のことに詳しく、船を自由自在にあやつれる優秀な船乗りが、どうしても必要だったのです。
「海で囲まれた日本が発展していくためには、船による貿易を、ますます盛んにしていかなければならない。そのために、商船学校を設立し、すぐれた船乗りを育てよう!」
 そう決意した間作さんは、あちこちの船主組合や事業家に働きかけました。しかし、はじめのうちは、反対する意見がほとんどでした。
「そんな、とほうもない。何も、わざわざここに商船学校をつくらなくても…」
「島国日本の繁栄は、海運業にかかっている。そして、海運業を支えるのは船乗りだ。ここ新湊に商船学校をつくり、すぐれた船乗りを全国各地へ送り出そうではないか!」
 そう力説する間作さんの情熱は、だんだん人々に伝わっていきました。そして、1899(明治32)年、ついに商船学校が開校したのです。
 このように、間作さんは、ふるさとのため、日本海側の貿易の発展のために、力を尽くしました。35年という短い一生でしたが、大きな仕事を立派に成しとげたのでした。

●南嶋間作さんのミニ年表
1863年   射水郡放生津町(現在の新湊市)に生まれる
1883年 20歳 慶応義塾で政経学を学ぶ
1886年 23歳 新湊町立卓立小学校・廉貞小学校の校長を務める
1889年 26歳 教師をやめ、家業を継ぐ
1890年 27歳 上海に渡り、海運事情を調べる。その後、新湊に戻り、南嶋商行という会社をおこす
1891年 28歳 ドイツ製汽船「チャイナ号」を購入し、「奈古浦丸」と名付ける
1894年 31歳 「志賀浦丸」と「有磯浦丸」を購入する。中国への定期航路(廈門港)を開く
新湊汽船会社をおこす
1899年 35歳 亡くなる

富山県ひとづくり財団の全面協力をいただき、同財団刊行の「夢を追いもとめて」の文章を記載させていただきました。