藤井能三南嶋間作高峰譲吉松村謙三林 忠正嵯峨寿安吉田忠雄堀田善衞



 今から130年ほど前のこと、1869年(明治2年)寿安さんは、金沢藩からロシア留学を命じられました。
 当時、海外留学といえば、森鴎外の小説『舞姫』に描かれているように、船でインド洋を渡り、ヨーロッパに入るという旅が一般的でした。
 寿安さんも、インド洋経由で行きたかったのですが、財政事情の厳しい金沢藩は、それを認めませんでした。
 そこで、寿安さんが選んだのが、船で日本海沿岸のウラジオストクに渡り、ユーラシア大陸を横断する方法でした。
 1871年(明治4年)5月20日、31歳の寿安さんは、ロシア船・エルマーカ号に乗り、函館港からウラジオストクに向けて旅立ちました。
 とはいえ、それまで、「留学する」という目的をはっきり持って、ロシアを横断した日本人はいませんでした。たまたま放浪・流浪に近い状態で大陸を横断した人としては大黒屋光太夫が有名ですが、寿安さんは始めから大陸横断を決意したのです。途中のシベリアにはオオカミがいるし、冬はマイナス40度以下になるのです。
 どんな困難や危険が待ち受けているか分からない、まさに不安に満ちた冒険の旅でした。
 それでも、寿安さんは、留学の夢をあきらめきれませんでした。計画どおり、函館から船でウラジオストクへ渡り、ウラジオストクから、馬車、そり、川蒸気船などを乗り継いで、目的地のペテルブルグにたどり着きました。8か月以上もかかった長旅でした。

 寿安さんがロシアへの留学を決意したのには、ギリシア正教の修道司祭ニコライの影響がありました。
 寿安さんは、1840年(天保11年)に生まれました。父は金沢の眼科医でした。祖父は大村屋といい、加賀藩直轄領・東岩瀬で伝馬屋を営んでいました。この時代のいわば「高度情報センター」です。
 寿安さんは、17歳のとき江戸に出て、村田蔵六(大村益次郎)の塾・鳩居堂に入りました。オランダ語、医学、西洋兵学などを学び、成績優秀で、たちまち頭角を現わして第2代塾頭になりました。
 横浜にロシア軍艦が入り、その軍艦が函館へ向ったという知らせに導かれるように、寿安さんは函館に入りました。
 そこで、寿安さんはニコライに出会い、その後、3年間もの長期にわたってニコライと寿安さんはロシア語と日本語をお互いに教え合い、心相通じる仲になりました。寿安さんが26歳の時でした。
 ニコライは、寿安さんをロシアへ留学生として送り込むために加賀藩主前田慶寧あてに手紙を差し出しました。
 ニコライは4歳年下の寿安さんに、弟子のように愛情を注いだのです。
 しかし、寿安さんはロシア語を学ぶことが、新時代の近代化政策の下では、ある種の危険をはらんでいることを知っていました。
 つまり、日本が西欧から科学技術・制度などを学ぶうえで、強い国の言葉を学ばなければ立身出世できず、ロシアから学んでは当時の政治・社会状況のもとでは出世できない危険があったのです。
 しかし、寿安さんは、布教のために来日したニコライとの出会いによって、名誉・権力とは無関係に生きることにこそ価値があると思ったのです。

 寿安さん到着の1年後の1873年(明治6年)4月、明治政府派遣の岩倉遣欧使節団がロシアの首都ペテルスブルグに入り、その時、寿安さんは、木戸孝允、伊藤博文とも会いました。
 しかし、寿安さんが出発して2か月後の1871年(明治4年)7月に「廃藩置県」のため、金沢藩はなくなってしまいました。寿安さんは藩のために尽くそうと決意しましたが、その藩がなくなり、後から派遣された伊藤博文らの明治の新政府の時代になりました。
 帰国した寿安さんは、1874年(明治7年)政府から北海道開拓使御用係、1876年(明治9年)には東京外語学校の教官になりましたが、これも翌1877年(明治10年)には退官しました。その後、一旦、岩瀬に戻り医者となったりしたものの、金沢藩がなくなったことや、明治政府が、医学・哲学はドイツ、外交慣例はフランス、陸軍はドイツ、海軍は英国を手本としたことなどから、寿安さんのようなロシアへの留学生は、明治政府で重要な役職に選ばれませんでした。
 晩年は、1996年(明治29年)頃、サハリン島のコルサコフ(大泊)に滞在し、翌年には参謀本部の広島師団でロシア語を教え、1898年(明治31年)にその広島で亡くなりました。

 寿安さんの藩へ貢献したいという意思は果たせなかったものの、日本で初めて、学ぶ心を持って、ロシア大陸を1人で横断し、留学の夢を果たした人として今も語り継がれています。
 現在、寿安さんの偉業を刻んだ石碑(1936年建立)が、岩瀬小学校の前庭にあります。

●嵯峨寿安さんの年表
1840年(天保11年)   金沢に生まれる。父健寿。祖父は岩瀬新川町で伝馬屋を営み「大村屋」と称した
1855年(安政2年) 15歳 藩校壮猶館で西洋医学を黒川良安に学び、漢籍を井口済に学んだ
1857年(安政4年) 17歳 江戸に出て村田蔵六(大村益次郎)の鳩居屋に入った。オランダ語を基礎に、医学・軍事技術を学ぶ
1861年(文久元年) 21歳 鳩居屋を卒業し金沢に戻る。この年、ニコライが函館の領事館に着任する
1866年(慶応2年) 26歳 ニコライと出会い、ロシア語と日本語をお互いに教え合う
1869年(明治2年) 29歳 4月28日、藩よりロシア留学を命じられる。9月4日、師団の大村益次郎が襲撃される
1871年(明治4年) 31歳 ロシア船「エルマーカ号」で函館からウラジオストクへ向う。ロシア大陸横断
1873年(明治6年) 33歳 4月、ペテルスブルグで岩倉遣欧使節団一行と会う
1874年(明治7年) 34歳 帰国。その後、北海道開拓使御用係、東京外国語学校の教官となる
1876年(明治9年) 36歳 東京外国語学校の教官となる
1882年(明治15年) 42歳 東岩瀬町を訪れる
1887年(明治20年) 47歳 東京へ戻る。内閣官報局に勤務
1896年(明治29年) 56歳 サハリンの大泊に滞在す
1898年(明治31年) 58歳 12月15日、広島にて死去

■参考にさせていただいた文献
「越中人譚」株式会社チューリップテレビ発行
■ご協力いただいた方
犬島 肇氏