藤井能三南嶋間作高峰譲吉松村謙三林 忠正嵯峨寿安吉田忠雄堀田善衞

「化学の勉強は、本を読むだけでなく、実験が大切です」
 15歳の高峰譲吉さんは、大阪の舎密(化学)学校で、ドイツ人のリッテル博士の授業をドキドキしながら聞いていました。
 舎密は、なんとおもしろい学問だろう――。
 譲吉さんは、医者をめざして医学学校でも学んでいましたが、実験がおもしろいので、たちまち化学に夢中になりました。
 そして、化学をもっと勉強したいという気持ちがおさえきれず、18歳のときに、新たに東京の工部大学校(現在の東京大学工学部)に入学し、勉強を続けたのです。
 化学の道を選んだこと――。それは、譲吉さんにとって、運命の選択でした。
 学校を卒業した譲吉さんは、工部省に入りました。
 工部省とは明治時代の役所の一つで、西洋から導入した新技術を用いて、大規模な事業を経営する役割をになっていました。
 譲吉さんは、その工部省から、イギリスのグラスゴー大学に留学を命じられました。譲吉さんは、当時日本より技術の進んでいたさまざまな分野の勉強をすることができたのです。
 3年後、帰国した譲吉さんは、農商務省で仕事をすることになり、今度は、アメリカへ出張しました。
 実は、そのアメリカ出張が、譲吉さんの人生を大きく変えるきっかけとなったのです。

 アメリカ・ニューオーリンズで開かれていた万国博覧会に来ていた譲吉さんは、キャロラインという女性と出会い、結婚しました。
 いったん日本に戻ったものの、その後、譲吉さんは役所をやめてアメリカへ渡り、さまざまな活動を始めました。
 譲吉さんが興味をもったのは、ウイスキーでした。当時、ウイスキー造りには、広大な土地と6か月もの期間がかかると聞き、譲吉さんは考え込みました。
 日本の酒造りの方法を活かせば、もっと短期間に、しかも工場の中でもウイスキーをつくれるのではないか――。
 譲吉さんは、研究したことのある日本酒のつくり方を思い浮かべました。
 日本酒をつくるときには、「種こうじ」を使います。
 しかし、「種こうじ」を日本からアメリカまで腐らせずに運ぶことは、当時は非常に難しいことでした。
 何か、新しい方法はないだろうか…。
 いろいろと実験を繰り返した譲吉さんは、 「種こうじ」を改良して、腐りにくい「元こうじ」を開発しました。そして、この「元こうじ」を使い、これまで捨てられるだけで見向きもされなかった麦の表皮から、ウイスキーをつくることにも成功しました。
 これは世界初の発明でした。
 この譲吉さんの発明は、「高峰式元こうじ改良法」・「高峰式醸造法」と呼ばれています。

 譲吉さんは、アメリカのピオリアに工場を建て、ウイスキーの生産を始めることにしました。そして、明日からいよいよ生産開始という日の夜――。
「火事だ!」
 その声に、譲吉さんが飛び起きて工場を見ると、なんと工場から、大きな火の手が上がり、赤々と燃えていたのです。
「ああ、ウイスキーの材料が燃えてしまう!」
 譲吉さんは必死になって火を消そうとしましたが、工場は燃え尽きてしまいました。この火事は酒造りに反対した人たちが放火したともうわさされました。
譲吉さんは、男泣きに泣きました。
「誰が犯人かということは、問題ではない。工場が燃えてしまったという事実が、悲しいのだ…」
 譲吉さんの心と体に、悲しみと疲れがどっと押し寄せて、今まで具合のよくなかった肝臓の病気が、一気に悪くなってしまいました。
「残念ですが、譲吉さんはもう助からないでしょう」
「いいえ! 生きていてもらわなければ…。なんとしても手術を受けさせます!」
 キャロラインさんは、譲吉さんを助けるために、 必死になりました。遠く離れたシカゴの大きな病院に運び、手術を受けた譲吉さんを一生懸命に看病しました。
 そのかいあって、6か月もかかったものの、譲吉さんは健康を回復したのです。

 大手術を終えた譲吉さんは、病院のベッドに横たわりながら、考えていました。
 酒造りで使う「こうじ」の力を、人間の胃の消化力に応用すれば、病気を治す薬が作れるのではないだろうか…。
「災い転じて福となす」ということわざにもあるように、研究熱心な譲吉さんは、ピンチをチャンスに変えてしまう人だったのです。
 その後、薬の会社であるパーク・デービス社が実験したところ、その薬はすごい効き目のあることが分かり、世界中に売り出すことになりました。
 これが、消化の薬として有名になる「タカジアスターゼ」でした。
 一方、パーク・デービス社では、手術の時に、出血をおさえる薬ができたらよいと考えていました。
 魔法のような消化の薬を作り出した譲吉さんなら、きっと作ってくれるだろうと期待して、その薬づくりを依頼してきたのです。
 しかし、それまで麦や米の研究をしてきた譲吉さんには、動物に関係する研究には不慣れで、なかなか進みませんでした。
 さすがの譲吉さんもあきらめそうになったとき、上中啓三という人が、譲吉さんの助手にしてほしいと日本から訪ねて来ました。
 譲吉さんは啓三さんの精密な観察に助けられ、ついにアドレナリンを発見しました。
 アドレナリンは止血剤、強心剤として、手術を受ける患者さんにはとても重要な薬で、今でも「アドレナリンなくして治療なし」と言われています。
 このように、譲吉さんは自ら選んだ化学の道で、つぎつぎと世界的な発見をしていったのでした。

●高峰譲吉さんのミニ年表
1854年   高岡町(現在の高岡市)の医者の家に生まれる
1869年 15歳 大阪の舎密(化学)学校でリッテル博士に学ぶ
1872年 18歳 工部大学校(現在の東京大学工学部)に入る
1880年 26歳 イギリスへ留学する
1890年 36歳 「高峰式元こうじ改良法」を発明する
醸造法で特許を得る。妻子を連れアメリカへうつる
1893年 39歳 ウイスキー工場が火事になる。肝臓病を再発する
1894年 40歳 タカジアスターゼの抽出に成功する
パーク・デービス社からタカジアスターゼを発売する
1900年 46歳 牛の副腎からホルモンを結晶化することに成功し、アドレナリンと命名する
1913年 59歳 アドレナリン発見の業績に対し、学士院賞を授与される
1917年 63歳 官民合同の理化学研究所をおこす
1922年 67歳 亡くなる

富山県ひとづくり財団の全面協力をいただき、同財団刊行の「夢を追いもとめて」の文章を記載させていただきました。