藤井能三南嶋間作高峰譲吉松村謙三林 忠正嵯峨寿安吉田忠雄堀田善衞
「高品質のファスナーをつくりたい」
世界的企業YKKの創業者

「東京へ行って、大きな商売をしたい」
 小学校を卒業しただけで、兄の経営する店で手伝いをしていた吉田忠雄さんは、東京という大都会に憧れ、何としてでも上京しようと考えていました。
 ちょうど、洋服が流行し始めていたころです。忠雄さんは、近い将来、洋服は必ず大流行するだろうと目をつけ、上京したら洋服生地を貿易する店に勤めたいと思っていました。
 洋服屋になれば、もうかるのは分かっている。でも、その洋服生地をあつかう貿易商になれば、もっと大きな商売ができるようになるはずだ…。
 そして、いよいよ待ちに待った上京のときがやってきました。夢にまで見た東京行きに、忠雄さんの胸はときめきました。
「上京する以上は、きっと成功してみせるぞ!」
 東京に着くと、忠雄さんは日本橋の古谷順平さんの家にお世話になりました。古谷さんは入善町の出身で、中国の陶器を輸入する店を経営していました。忠雄さんは、しばらく古谷商店を手伝いながら、就職先を探して歩きました。
 しかし、世の中の景気が悪く、関東大震災が起きた東京では、なかなか就職先を見つけることはできなかったので、忠雄さんは、そのまま古谷商店で働き続けることにしました。

 これでは、どこに何の品があるか、分からない…。忠雄さんが働き始めたころの古谷商店の倉庫は、ほとんど整理整頓されておらず、商品の数も分からないという状態でした。
 忠雄さんは倉庫をすっきりさせようと考えて、倉庫の物品の整理を始めました。整理をしながら、数多くの商品の名前を覚えました。
 忠雄さんの熱心な仕事ぶりは、すぐに認められ、どんどん信用されるようになっていきました。
 その後、古谷商店は、ファスナーも販売することになりました。忠雄さんも、ファスナーの商売に、真剣に取り組みました。
 この後、思わぬことが起こりました。古谷商店は、倒産に追いこまれてしまったのです。古谷社長は、忠雄さんに言いました。
「君は、本当によくがんばってくれた。商売の才能もあるようだ。この際、ファスナーで独立してみたらどうだ」
「はい、挑戦してみたいと思います」
 大阪のファスナーメーカーも、忠雄さんを信じて、協力してくれることになりました。
 こうして、忠雄さんは、ファスナーをあつかう仕事に、本格的に進んでいったのです。

 1934(昭和9)年、忠雄さんはサンエス商会という会社をおこし、ファスナーを売る仕事を始めました。
 しかし、当時、日本製のファスナーは品質が悪く、半分以上が不良品でした。
 どうしたら、不良品を少なくすることができるだろうか――。
 忠雄さんは、考えました。
「自分たちで工夫して、少しでも品質の良いファスナーを作ろう。外国の製品に負けないものを作るんだ!」
 こうして、忠雄さんは商品を売ることに力を注ぐ一方で、悪いところを手作業で直すなどの努力をして、品質の良いファスナー作りにも精を出しました。そのうちに、だんだん得意先が増え、サンエス商会は順調に発展していきました。
 そこで、忠雄さんは新しい工場を建て、それからは、金属部品は自分の会社で生産することにして、社名も、吉田工業所に変更しました。
 そのすぐ後のことです。突然、忠雄さんは、大ピンチに立たされてしまいました。戦争のため、銅が手に入らなくなったのです。ファスナーのチェーンに当たる「ムシ」と「スライダー」は、銅合金でできているため、銅がなくては、ファスナーは作れません。
 しかし、忠雄さんはくじけませんでした。銅がないなら、工夫して別の金属を使えばいい!
 忠雄さんは、新しい素材のファスナーを作ろうと考えました。それが、アルミファスナーの第一歩でした。
 その間にも、戦争は激しくなってきます。そして、とうとう東京大空襲が始まり、辺り一面、火の粉が降り、工場にも火の手が上がりました。
 夜が明けるのを待って戻ってみると、工場は焼失し、焼けただれた機械の残がいが転がっているだけでした。
 忠雄さんは、10年余りかけて築いてきたものすべてを失ってしまいました。

 最初のころに戻っただけだと思えば、がんばれるさ。一日も早く、工場を再建しよう――。
 忠雄さんは、魚津で工場再建に取りかかりました。
 そんな忠雄さんの様子に、多くの社員や二人の兄も協力してくれました。こうして、再び工場に活気が戻り、吉田工業所が作ったファスナーは、国内では優良品として通用するまでになりました。
 よし、次は海外への輸出が目標だ!
 ちょうどそのころ、製品を見るためにアメリカ人が訪ねてきました。
「わが国のファスナーに比べ、品質が良くありませんね。しかも、値段が非常に高い。これでは、とうてい取引はできません」
 そう言って笑うと、アメリカの優秀なファスナーを見せつけたのです。忠雄さんは、製品のあまりの違いに、がく然としました。
 もう手作業では、だめだ。アメリカのファスナー自動製造機を使わなければ!
 その機械はとても高価でしたが、忠雄さんは何とか機械を取り寄せ、近代的なファスナー工場を完成させました。
 さらに、忠雄さんは黒部市に工場を移転し、生地紡績工場(現在の黒部工場)、織機工場などを次々に建設し、原料から製品まで、すべてのものを自分の会社で生産するという目標を実現しました。
 なんと、工場内の機械までもつくりあげたのです。
 こうして、忠雄さんは品質の良い商品を作るために、努力と工夫を重ねました。
 また、忠雄さんは、海外に工場を造るとき、自分だけがもうけるのではなく、現地の人々と利益を分け合えるようにしました。これは、忠雄さんが「善の巡環」と呼び、大切にしていた考え方です。
 その結果、YKKという会社とその商品は、海外でも高い評価を受けるまでになったのです。

●吉田忠雄さんのミニ年表
1908年   下新川郡下中島村(現在の魚津市)に生まれる
1928年 20歳 貿易商を志して上京する。中国陶器輸入を営む古谷商店に就職する
1934年 26歳 サンエス商会をおこす
1938年 30歳 東京市江戸川区に工場を新築し、社名を吉田工業所と改名する
1945年 37歳 東京大空襲で工場が焼けたため、魚津町で、吉田工業株式会社をおこす
1950年 42歳 アメリカ製のチェーンマシーンを導入し、手工業生産から機械生産による近代工業へと転換する
1959年 51歳 生地紡績工場(現在の黒部工場)、織機工場の建設で、完全一貫生産システムが実現する
1961年 53歳 アルミ建材の生産・販売を開始する
1993年 84歳 亡くなる

富山県ひとづくり財団の全面協力をいただき、同財団刊行の「夢を追いもとめて」の文章を記載させていただきました。