富山大くうしゅう

 国語で、あまんきみこさんの「ちいちゃんのかげおくり」を勉強しました。せんそうで、家族をなくしたちいちゃん・・・。
 せんそうのことをもっとよく知りたいと思い、富山大くうしゅうを語りつぐ会の青木さんに、お手紙で教えていただきました。ちいちゃんと、青木さんが重なってきて、むねがいっぱいになりました。
 ほかの人にも、ぜひ伝えたいと思い、このページを作りました。絵はそうぞうしてかきました。



 私の家族  
   
 
私の家は当時は、か島町という所に住んでいて、父と母とそ母と弟と私と5人家族でした。昭和20年のころは、私は女学校の卒業学年(15才)で、弟もまた小学校の卒業学年(12才)でした。

 そのころの生活

 そのころは、日本国中の人たちはみなアメリカに負けないように、食料もなく、衣服も薬も、生活の大半の品物が配給で、ちょっぴりしかもらえない、買えないという時代でした。「勝つため」に、みなで力を合わせて働いていました。男の人たちは、つらい、せん場へ行かされましたが、女の人は国の中でへいたいさんに送るきかいとか、ひこうきやぐんぷくを作る仕事をしました。学校へは行っても、勉強をあまりしないで、へいたいさんに送る服をぬいました。工場へ行ったりもさせられて、真っ黒の油にまみれて仕事をしました。

 くうしゅうの日                         

 

 そんな時の8月1日の夜、アメリカのひこうきでも大きい形のB29というひこうきが、夜中の12時すぎに、太平洋にあるマリアナきちから858機が1度に飛んできて、日本の4つの町をくうしゅうしにきました。富山へは、174機が飛んできて50万個のしょういだんを落としました。富山の市内は全部丸焼けになりました。そのわりあいは、99.5パーセントですから本当に全部といってもよいでしょう。

 あついあつい2時間

 くうしゅうされていた時間は、2時間です。その間、みんなはその落ちる「たま」をさけてにげたり、火をかぶってあつい、あついと走りまわり、そして、「たま」にあたった人、けがをした人、じんづう川へ行って川の中でもたまにあたって流されたり、また家の中で丸焼けになった人、子供をおんぶしたままなくなったお母さん。ぐんようばも焼けました。もちろん、家は火がついてみんな燃えてこわれたし、そうこやお宮さんや学校などもみなばくだんでこわされて、そのこわされた所にまた火がつくから、全部焼かれてしまいました。ですから、みんなで2700人から2800人も富山市の人達は死んでしまいました。


 その時、私と家族も・・・

 私の弟も母も死んでしまいました。私は、足にやけどを受けました。頭の前のほうにも、ぼうくうずきんのかぶさっていないところは少し燃えました。(今は、そんな所にも、かみの毛ははえてきていますがね)とにかく、みなさんはそんなひどいめにあったことなど、ないでしょうから仲良く楽しく勉強ができてうれしいでしょう。


 

 私の願い

 せんそうが、もう「イヤ」とか「キライ」という問題ではありませんよ。どんなことがあっても国と、国とが話し合って、仲良くして、勝ったり負けたりであらそわないことですよ。これは、世界中の人が守らなければならないことですよ。もっとひどいお話をしても皆さんにはわからないでしょうから、また先生や大人の人たちに聞いてください。みなさんの住んでいる大門町には、アメリカのたまが落ちなかったからよかったね。だから、今後も落ちてこないように願っています。

強く強く生きぬいて

 私は、もう54年も月日がたっていても、昨日のことのようにあの日の、あのばんのことが思い出されてなりません。でも今は、それをバネにして、強く強く生きぬいております。みなさんも、つらいことをのりこえて、力いっぱいけんこうでがんばって生きることですね。自分から進んで、人のたよりになられる人間になってください。正しい行動を、最後まで取って、父、母に親こうこうをしてあげるのが子どものせきにんであるということを、しっかり守ってがんばってください。父と母は、自分の命をもらった人だからです。では、みなさんさようなら。

  平成11年11月                                  

                                 青木 仁子