総勢14名。小学校最後の学習発表会を充実したものにしたいとの
みんなの願い。時間をかけて学習し、内容を充実させ、観客にも訴 
 えるものをと考えました。                   
 


        取材活動から脚本づくり、そして大道具、小道具、音響効果、プレゼン
               づくりまで。さてその成果はいかがでしょうか。               
はじまり、まじまり。カチ、カチ、カチ。

 自由に話し、自由に書き、自由に読み、着る物も自由、住むところも自由、将来の職業を選ぶのも自由。私たちのまわりには、自由が満ち溢れている。でも、この自由という権利は、昔からあったわけではないのです。たくさんの人々の血のにじむような苦労と犠牲の上に成り立っているのです。
 さて、今から演じる劇は、正義の心をもち、強く生きた大門町出身の「稲垣 示」の一生をもとに作ったものです。
 私たちは、社会科や道徳で学習しましたが、「示」のことを深く知れば知るほど、私たちが当然のように思っている自由について考えさせられました。今年は「示」が亡くなってから百年目にあたります。この記念すべ年に「示」を演じ、「示」の存在を皆さんに知っていただく機会にしたいと思いました。皆さんも私たちと一緒に自由について考えてみてください。
おいたち  江戸時代の終わり頃、棚田村の大きな農家の子として生まれました。子どものころは恒太郎、成人してからは忠雄、示と名乗ったのはずっと後になってからです。棚田地区の三分の一が示の家のものであり、屋敷も千坪もあるかなり大きな地主の家だったようです。

 

少年時代
   昔はよく見かけた子どもたちの遊び。男の子はチャンバラごっこ。恒太郎がけがをしてあわや一大事にならんと・・・。  年貢の取立ても容赦しない。役人も役目を果たすのに一生懸命。そこに「示」の父が登場。そして温かいことば。  役人の態度に疑問を抱いた「示」。「まだまだ学問をして人のためになるようなえらいもんになるがいぞ」という父のことばを真剣に受け止めた「示」。

 

青年時代   恒太郎は腕白なところもありましたが、勉強は大好きでした。15歳の頃には棚田の寺子屋で先生の代わりに勉強を教えたほどでした。その後、金沢藩まで出かけ、漢学や洋学を学び、19歳で射水大司令官(小杉の郡奉行所より)として農民でありながら、刀を持つことを許されました。
 この頃、ヨ−ロッパの進んだ考え方を学んだ板垣退助の影響を強く受けました。
忠雄「働くことも大切だが、生きがいがともなわなければ意味がな い。自由のなんたるかを人々に知らせ、かけがえのない人生に目覚めてもらうことこそ、射水に生まれた自分のつとめだ。
忠雄「このままでは世の中の流れに取り残されてしまう。もっと一人一人の意見を大切にし、みんなが政治に参加できるよう国会を開く運動を広めるんだ。おれは射水の名のように、射るように貫き通す言論で戦うぞ。君達も私の後に続いてくれ。」


自由民権

活躍の時代
    明治12年、示は31歳。
高岡、富山、金沢と各地で演説を始めました。
「高岡の皆様に申し上げる。みな生まれたときから、一つずつ大きな宝をもっていらっしゃる。その大きな宝とは何かおわかりかな。」
「その宝とは、自由の権利というものです。元来あなた方の自由の権利は命より重要なもので、自由がなければ生きていても仕方がないほどのものです。」
「われわれの代表を選挙で選び、政治に参加させることが大切なのです。政府に対し、国会を開くよう頼もうではありませんか。」
 東京や大阪では板垣退助らを中心に自由民権運動がくりひろげられていました。
「今の政治は、一部の役人によって思いのままに行われている。苦しみを訴える場もない。このままでは国は滅んでしまうであろう。もともと税金を納めているものは、政治について意見を述べる権利をもっている。だから早く民選議院を設立すべきである。」と板垣は熱っぽく語った。

 民衆の声を反映している川上一座のオッペケペ−節が、聞こえた。
(民衆として4年生の友情出演がありました。)
「板垣さん、もとは政府の役人のあなたが、このように国民の心を乱し、国を乱すようなことをされては困りますなあ。」
「何をおっしゃる。あなた方政府のお役人こそ、国民のことも考えず、税金を高くしたり・・・。」
「何をいう。それもこれも国のため、国民のためではないか。」
「何が国民のためだ。本当に国民のことを考えるなら、われわれの意見を政治に取り入れろ。」

「板垣先生、われわれの苦労がもうすぐ実を結びそうですね。」
と「示」と「板垣」は固い握手をかわす。
その後   しかし、これで「示」たちの「自由民権運動」が終わったわけではありません。十年後の国会開設に向けての準備を始めました。まず、新聞社「北陸日報」の社長となり、自分の考えを広める活動を。さらに、高岡に北立自由党の設立。第2回の選挙に見事に当選を果たしました。
「金儲けだけが生きる道ではない。地域のため、県のため、国のために奉仕する政治を行ってこそ、一人前の指導者である。」と。
 明治35年、54歳でこの世を去るまで、この活動は続きました。



稲垣 示
「自分を犠牲にしてまで、人々の自由を心から望んだ人。
常に、人々の生活の向上を願いながら、不正を憎み、自由と権利を求めて戦う、正義の人。」

  私たちの自由。私たちの権利。
私たちは当然のことのようにそれを主張し、勝ち取っています。「示」の願った自由とはこのようなものだったのでしょうか。

 私たちは、「示」の心の強さ、広さに引かれ、そして自由について考えさせられました。郷土大門町をこよなく愛した「示」。私たちは、この偉大な人物を育てた大門町に生まれたことを誇りに思います。
 最後に「示」の詠んだ歌を紹介し、幕とします。
 「朝夕に 心をみがく 白雪の
        越の立山 いつ忘るべき」

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