(昭和63年度作成、平成10年度解説付きアルバム作成)

  絵 札 読み札・解説 ゆかりの場面

 浅く掘っても水がでる浅井地区

 浅井地区は水のよいところで知られている。浅井戸といって、伏流水が豊富でところどころ湧水もしており、浅い井戸から水が出ることから地名となった。              

  いとよすむ清水わきでる
     広上の里


 水のきれいな小川や湖にすむ魚としてイトヨの仲間は、小鳥のように水草で丸い巣をつくることで知られています。下半分は水底の泥にうめ、外側には泥をぬって仕上げます。体長は5〜8cm、春に雄の体側が美しい赤色になるのが生殖期の特徴です。    

 受け継ごう浅井の心報徳精神

 二宮尊徳が農村復興にあたって基にした考え方であり、論語の「徳をもって徳に報いる」。すべてのものにひそんでいる徳を人間の力で引き出し、役に立てることを「報いる」とする考えであり、具体的には天道、人道、一円融合等。             

  営農組合で共同化が進む
     浅井の農業


 近年農業の兼業化が進み、時間と労力等の不足で、農地を自ら耕作することのできない農家が増えてきている。専業農家や中核農家への農作業の委託や営農組合をつくっての共同化が進み、大型機械や施設の利用、集団栽培を行っている。          

 お祭りは三つの獅子が舞う
      土合神社


 土合地区は浅井校下で一番戸数が多く、北部をのぞいても150戸である。面積も広く、祭礼時の獅子舞は、高土合、古川、柳又でそれぞれあり、土合神社への奉納も三つという。  

 

 加賀藩の発展につくした折橋家

 射水野の十村役だった折橋家。1635年(寛永12)越中在住四代次郎右衛門が十村肝煎役についたのが役儀初代。以来明治3年9月の廃藩置県まで14代二策を最後に役儀で11代、連綿と240年にわたって地方の農政に貢献した。
 四代九郎兵衛は戸出の又八と芹谷野用水の開発に力を注いだ。     

 協力して水害から立ち上がった
          村の人々


 洪水の後、ようやく水の引いた浅井地域は見渡す限り石ころばかりになった。田畑にたまった水を人工の川で流したり、石ころをモッコで運び出したり、また流水客土という方式を使ったりして、村中の人々が頑張った。  

 

  苦労を語りつぐ水害記念碑

 大水害(昭和9年)から6年後の昭和15年7月11日、水害の復興の経過と報恩感謝の気持ちを伝えるために、水害地の中心(上条地区)につくられた記念碑である。後に、町内6ヶ所に、洪水水位碑も建てられた。)    

  下条地区日本一の広い美田

 地域は庄川右岸に位置し、和田川と鴨川にはさまれた水田集落で、農家率は80%、米づくり農家が大部分です。
 昭和9年の洪水の復旧事業の後、昭和61年に着工した県内初の50aほ場整備という大規模区画、大型の近代化された施設の建設もみられます。   

 交通の大きなはたらき南郷道路

 道路は町を結ぶネットワーク。まちの活性化を図り、近隣都市との交通を深めるための道路交通体系の整備が進められている。          
 昭和49年の南郷大橋の開通にともない、新湊・庄川線まで通じていた道路が東へ東へと伸び、昭和58年黒河まで開通した。            

 

  さけがそ上する秋の庄川

 鮭はもともと海の魚でしたが、敵の少ない川で卵を産むようになりました。小魚になって川を下り海で生活しますが、秋にもといた川に再び戻ってくるのが特徴です。体長1mくらい、海に下って4〜5年で親になります。
 上条の家々を回る親鸞聖人像

 江戸時代の頃まであった最勝寺が、寺基を高岡に移した時に、別れを惜しむ村人に遺し与えられた一木刻みで高さ70cmの木像である。207年、越後配流のときの親鸞の修行姿であるとか、今も毎月交代で持ち回り、朝な夕なに奉仕するという風習が残っている。
 水害にも負けず先頭に立った
         麻生村長


 大洪水の悲惨にくれた地域の人達を導いた当時の浅井村の村長さん。「これは天が与えた大試練である。もっとよい浅井村をつくろう!!」と呼びかけ、報徳精神、浅井村の更生四則の実践を基に、村民一丸となって取り組まれた。
全校児童がとびはねる新しい体育館

 校舎の南側にあった旧体育館は老朽化のため、昭和63年度の事業として新築されました。
 水の豊富な浅井地区をイメ−ジした水色の屋根のモダンな新体育館。地域のスポーツ振興の拠点として社会体育にも大いに利用されている。
 空高く凧舞い上がる春の庄川

 五月晴れの青空に舞う凧の大群。初夏の訪れを告げる風物詩としてすっかり定着した。平成10年は第20回の記念すべき大会。世界五カ国からの参加も得て、盛大なものとなった。子どもたちたの凧、児童クラブ、自治会、企業等の凧と回を重ねるごとに見ごたえ十分。

 

 田も家も丸のみした
     昭和九年の大洪水


 日頃は穏やかに流れる庄川も、明治、大正、昭和の約100年間に、38回もの大洪水がありました。中でも昭和9年、7月11日、前夜からの雨で、東洋一といわれた小牧ダムの水門が全部開かれ、上麻生、西広上の堤防が7ヶ所決壊し、浅井地区全体が一面海のようになってしまった。444444444
  中部用水できてから
    浅井の田んぼ豊年万作


 浅井地区の田畑を潤す水は、かっては庄川右岸の豊かな水(伏流水)と砺波地方の用水の落ち水で十分だった。しかし、昭和9年の大洪水の後、庄川の改修や和田川の総合開発により、湧水が少なくなった。昭和49より約10年間の歳月と巨額(6億円)を投じ、庄川の水を直接取水する特殊工法による用水を完成しました。
  つぎつぎとすべりおりるぞ
         冬の庄川


 四季折々にいろいろな顔を見せる庄川。豊富な水量、全国的にも有数の清流です。近年降雪量もやや少なめですが、学校から歩いて10分くらいの土手は格好のスキー場、下学年もそり遊びで楽しんでいます。
 堤防がくずれて流れた西広上

 昭和9年の大洪水で、堤防が決壊した地域。集落は庄川の改修時に川の東西に分かれたため、庄川の左岸にも西広上(高岡市)の地名がある。
 今では立派な堤防も築かれ、大門−広上−小矢部サイクリングロ−ドも通っている。
  トロッコを使って
     水害のあとかたずけ


 何しろ洪水の水の引いたあとは石ころだらけ。とうてい農業ができるどころではなかった。まず、水を出し、石ころを取り除き、それから流水客土で肥えた土を入れ、土地の高低をなくしたり、トロッコを使っての作業が続いた。

次へ