前沢の電燈物語


 前沢の家々に、電燈がつくようになったのは、今からやく65年前のことです。それまでは、石油ランプのあかりの下で、夕食をとったり夜なべをしたりしていました。そのため、毎日ランプのほやみがきが、老人や子どもの仕事だったそうです。
 大正の初めに、黒部川の大洪水により、前沢の宮野用水の内山取入れ口がこわされました。こんなことが、毎年くり返されていたので、愛本橋づめ取り入れ口の大改修をかねて「地方開発のため、水力発電事業をすればどうか。」という話が出されました。
 前沢の中田輝顕さんの考えられた計画をもとにして、初代社長 中島次郎助さん等の努力によって、大正2年12月24日に、三日市の久昌寺で、愛本電気株式会社の設立総会が開かれました。
 その後、やく一年間に、会社をつくるための手続きや、導水路工事、配線工事、資金集め等の計画が進められ、大正4年5月末までには、点燈を希望する家庭内の配線工事が、完了したそうです。
 この間には、いろいろな問題があり、その解決のため、なかなか電燈がつかなかったそうです。
『明るい 明るい 五燭の電気』
 待ちに待った電燈が、大正4年8月20日より、営業開始になりました。
 ランプにくらべて、なんとあかるいことか。ほやみがきもなくなり、安全で
「夜中じゅう 家の中が こかこかだ。」
と、老人や子ども達は、大変喜びました。
「子どもが、夜一人で 便所へ行けるようになった。」
と、大人たちも喜びました、一家そろって、五燭の電燈の下で、おそい夕食を食べたそうです。
 しかし、大部分の家は、五燭光か、八燭光の電燈1こだったそうです。
 今は、一つ一つの部屋はもちろん、げんかん、台所、ふろ場、便所、階段、廊下等、少なくとも10こ以上、電燈があるのとくらべると、すごいちがいです。
『昼は工場で、夜は家に移る電気時代』
 家にある電燈がついているのは、日没から翌日の日の出までです。ただし、雨天、雪降りの時は暗いので、1時間あてのばされました。(昼は送電されませんでした。)人間と同じように、昼間、電気は工場へ送られて働き、夜になって家へ帰るものだと、だれもが思っていました。
 当時は、ラジオやテレビ、冷蔵庫、電熱等の電気器具はなく、特別の家だけ、昼の送電配線をして、7、8、9月の3ヶ月間だけ、扇風機が使われていました。そして、1ヶ月2円という高い電気料を支払うことになっていました。
 電球は「タングテン條の白熱燈」で、見るとキラキラ光るし、さわるとあつい熱があり、丸く今の蛍光灯とはだいぶちがっていました。
 しかし、会社から貸してもらっているので、消えるととりかえてもらっていましたが、こわれるとべんしょうすることになっていて、むだんで明るい電球を使っていると、それこそ大変でした。
(後略)


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