種籾の産地『前沢』と六左ヱ門物語


 昔から昭和15、6年ごろまで、春の雪どけとともに、黒東地方から百姓さん達が荷車に米をつんで、山田新や布施山方面へ 毎日 契約していた種もみを替取りにたくさん上られたものだそうです。前沢は県下三大種籾産地として、幕末時代から知られていました。これについては、次のような物語がつたえられています。


「六左ヱ門種籾の発見」

 今からやく140年前の天保のころ、前沢の表向 六左ヱ門どん(朝倉貞夫さんの5代前)の奉公人に次三郎(中部の中島石蔵さんの祖父)という百姓熱心な人がありました。
 ちょうど、お盆のころ、門徒寺の小川寺へ寺まいりに行く途中、布施川べりの田んぼのいねは、よく実っているなあと自分の家の田んぼのいねとくらべながらよく見ていました。すると田面の中に とくべつ 実りがよく頭をもちあげ じょうぶそうな稲穂を発見しました。よく見ると質や形もよいので、これはよいものを見つけたと大切に稲穂を家へ持ち帰りました。
 次の年、さっそく試作してみました。すると収かくが多く、質がよく、成じゅくも早くじょうぶなので、台風などのひ害も少ないだろうと思われました。しかし、次三郎には、財産もないので人々に伝えることができないことを悲しんでいました。これを聞いた六左ヱ門様は感げきし、次三郎を援助したくさんの農民に奨励し広めることにつとめました。
 また、この種籾を買うお金に困る人々には無料でわけてあげました。多くの農民達はとても喜び、この種籾を「六左ヱ門坊主」とよんで、遠いところからも求めて来る人がふえました。そして、たちまち近郷近在はもちろん県外にも広まりました。前沢は、高台で風通しはよく、土質や水質もよく百姓たちもよい種籾を作るよう努力しました。六左ヱ門様は、米作りの研究や青少年に相撲を推奨するなど、後継者の育成にも努力されました。
 遠く砺波地方や県外ではこれを「前沢坊主」と称して長く植えられました。毎年の風害などの被害も少なく収量も多く、世益も多大となりました。
 後に、富山県初の米繭共進会が富山公会所で開催された時、明治18年11月25日付けで、富山県令従5位勲6等国重正文(知事)から故朝倉六左ヱ門氏のその功労に対して、追賞が授与され、金参円也が贈られました。(中越新聞 明治18年11月27日の紙面による)

 その後も種籾作りが続けられ、戦前に幅崎市次さんが中心となり「前沢稲種組合」を結成し、品種の改良に努力しておられました。現在は「黒部農協稲種部会」が主体となり、山田新、幅坪、布施山全域に6134アールが指定され、「前沢種籾センター」で集荷調整のうえ各地に配布されています。品種は県の奨励品種です。(豊年早稲、越路早稲、こしひかり、日本晴など)
・ 昭和54年度 出荷量 30万kg(一袋30kg)
・ 組合員 51名
・ 12160万円


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