とのさま往来


 「十二貫野に、とのさま往来が あるそうな。」
時代がかわり、江戸時代から百年もたったこんにちでも、そんなことをたずねる人があるそうな。

 こんな話を家に帰って、ばあちゃんにすると
「そうだよ、昔とのさまが、江戸へ行ったり来たりするときに通る道のことを、とのさま往来と言ったがいぜ。でも、十二貫野の場合は、ふつうのとのさま往来とは少し意味がちがっとるよ。」
と言って話してくれたのが、次のようなことでした。

 十二貫野は、江戸時代の終わり頃までは、ほとんど荒地やったと。
 山へ山菜をとりに行ったりたきぎをとりにいったりすると、ウサギやきつね、たぬきなどが、たくさんおって、一人ではさびしくて行けないほどやったそうな。それでも、近くの人たちは、馬に食べさせる草をかりに行ったりしていたがやと。
 そのうち、この荒地を開いて、田畑をつくろうという話が持ち上がった。それは、夏だというのにいろりにあたり、着物を一枚よけい着なくてはならないほど、寒くてどうしようもないという日が毎日つづいた年やったと。米は一粒もとれなくて、が死する人もたくさん出たそうな。
 田畑をつくろうという話は、近くの村の役人や藩のとのさままで、乗り気になったそうや。
 この話をうまくまとめたのは、今の黒部市や魚津市、入善町、朝日町に住むお金持ちの役人さんたちと、魚津の大熊村に住む椎名道三たちやった。
 この人たちは、とのさまに何回も開たくの願いを出し、やっと認められて、ついに工事にかかることになったそうだよ。
 工事もかなり進んだある日、ときのとのさまが十二貫野の開たくをぜひ見たいといわれたそうな。役人たちは大変ありがたいことだが、失礼なことがあっては大変だということで、それはそれは気をつかったそうな、

 とのさまは、みんなが一生けんめい協力して、開こんにはげんでいるようすを見て、大そう喜ばれたそうな。

 そのとき、通られた道を村の人たちは。いつとはなしにとのさま往来≠ニいうようになったがやそうな。


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