中山のぶどう作り


 これはまだ、戦争がはげしくなるなる前の話です。
 十二貫野台地では、十二貫野用水やため池を利用して稲作がおこなわれていました。それでも水不足になやむ夏もあり、米作りにはたいへんな苦労がありました。
 十二貫野用水の水は、中山の今の新川牧場のところまできています。そこより低い土地で米は作れますが、高い土地では米は作れません。そのため、そこは草や木がしげったあれ地となっていました。そのあれ地を何とか利用しようと考えた人がいました。
 広瀬げんのすけという人が魚津に住んでいました。げんのすけさんは、そのあれ地で何か作れないかと考えたのです。
「水がなくても育つものはないだろうか。」
と思いついたのが、ぶどうともものさいばいでした。
 次の日からさっそく、ぶどう作りともも作りのじゅんびがされました。まず、あれ地を開たくすることが、第一の仕事です。
「うんしょ、うんしょ。」
「大きな木だな。こりゃ根もだいぶ大きいぞ。」
「あと、これさえなんとかすりゃ、ここは今に大きなぶどう園だ。」
 げんのすけさん一家の人、しんせきの人など、たくさんの人が、毎日十二貫野台地で草をかり木をたおして土地をならしていきました。もちろんきかいなどない時代です。くわ、スコップ、もっこなどの道具と人の力だけでやったのです。人々は、朝早くから夕方暗くなるまで、毎日がんばりました。
 あれ地もだんだん開たくされ、いよいよ秋になりました。秋になると、ぶどうやもものなえ木をうえるのです。手で、あなをあけ、一つ一つうえていきます。
 やがて、春になると、ももの木にはピンク色の花がいっせいにさきます。遠くの方からわざわざ花見に来る人もありました。
 夏が近づくと、ももの実がなり、いよいよ収かくです。そして、次はぶどうの収かくです。
 ある年の夏、その年のつゆは長く、じめじめした雨が、いつまでもふっていました。ぶどう園では、こんなことがありました。
「ああ、とうとう実が黒くしなびてしまった。」
「おそぐされ病や。」
「今年は、つゆが長かったもんなあ。」
おそぐされ病は、ぶどうにとって、いちばんこわい病気です。農園の人々は、ため息をつきながら、黒くなったぶどうの実をみていました。
 また、悪い虫がたかるときもありました。それでも農園の人々は、根気強く、ももとぶどうのさいばいにがんばりました。
 戦争がいよいよはげしくなりました。十二貫野台地の田畑も、ぶどうやももどころではありません。食料が、だんだん不足してきたのです。ぶどうやももをつくっていた農園もいつのまにか、サツマイモ畑にかわっていきました。
 戦争が終わって、昭和35年頃、中山の人々は、広瀬農園のように、ぶどう作りにはげむ人もいました。それでも、悪い病気がはやり、悪い虫がたかったりして、たくさんの苦労がありました。今では、中山の2軒の家の人と、魚津の大根せんぎょう農家の人たちのぶどう畑が残っています。夏の終わりごろには、戦争前と同じように、たくさんのぶどうの実がなります。
 そして、中山のお宮の横には、苦労して広瀬農園を作った、広瀬げんのすけさんの記念像があるそうです。