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校  訓school precepts

沼 野  一 男  先 生
 前 玉川大学文学部教育学科主任教授
 玉川大学大学院教授
 新校舎建設当時  神田外語大学教授
 慶応義塾大学講師

 蟹谷中学校の校訓として、私の著書のなかの言葉「読・書・問」が選ばれたことは光栄だとも思いますし、また嬉しいことでもあります。しかし、この言葉は皆さんがはじめて聞く言葉だと思いますので、簡単に説明させていただきます。

 皆さんは、読・書・算あるいは読み、書き、計算という言葉を聞いたことがあると思います。学校では国語、社会、数学、理科、音楽、美術、保健体育、技術・家庭、英語等いろいろな教科を学びますが、読・書・算というのは、こういう教科を学び、それによって皆さんが自立的な人間として成長するための基礎となる学力だと考えられていました。自立的人間というのは、自分の行動を自分で決定し、その行動について自分で責任をとることのできる人ということです。
 現在の社会では、読み、書き、計算ができなければ、一人前の人間として生活していくことはできません。ですから皆さんが自立的な人間として成長していくためには、ぜひとも身につけていなくてはならない学力という意味では、読・書・算の学力は確かに基礎的な学力と言えるでしょう。
 しかし、社会が進歩し、特に社会の情報化か進むにつれて、皆さんが自立的な人間となるための基礎学力として学校で身につけなければならないのは、読・書・算だけでいいのでしょうか。現在では文化や情報の伝達にさまざまなメディアが利用されています。情報や知識を身につけるという意味では、皆さんは学校だけでなく、テレビや雑誌など多くのメディアから学ぶことができるようになっています。今後コンピュータを利用したいわゆる二ューメディアの発達によって、このことはいっそう促進されるでしょう。
 では、こうした情報化社会のなかで、皆さんが身につけなければならない基礎学力をどう考えればよいのでしょうか。先生方が皆さんを教育する目的は、皆さんが自立的な人間として成長することです。また、皆さんが学校で勉強するのも、他人の意見や社会の慣習にしたがって行動するのではなく、自分の行動を自分で決定し、その行動に自分で責任を持つことのできる人間になるためです。そのためには、私は従来の読・書・算に代わって読・書・問という基礎学力が必要だと思うのです。
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 読・書・算と読・書・問は、たった一字の違いです。しかし、その意味には大きな違いがあります。読・書・算と言う場合の「読」は、文字や文章を読む能力ということでした。しかし、読・書・問と言う場合の「読」は、単に文字や文章を読む能力ということではありません。他から与えられる情報を正確に理解する能力です。他からの情報には、音声言語、文章、数式(数式も一つの文章です)によるもののほかに、映像や身振りなど言語以外の情報も含まれます。いわゆるコンピュータ・リテラシー、つまりコンピュータのプログラムを理解することもこの意味での「読」に入ります。
 ただし、ここで言う「理解」には必ずしも共感を伴う必要はありません。皆さんは「理解」あるいは「わかる」という言葉をよく使うと思いますが、この言葉には二つの用法があることに気がついているでしょうか。「君の言うことはよく理解できる」あるいは「あなたの言うことはよくわかる」と言った後に、口には出さなくても「私もまったく同感だ」という言葉か続く場合と、「しかし、私はそうは思わない」ということばが続く場合とでは、「理解」や「分かる」という言葉の意味は同じではありません。
 前の場合には少なくとも共感あるいは納得という意味合いが含まれていますが、後の場合には、そういうことはありません。読・書・問と言う場合の「読」が「理解する能力」であるという場合、この二つの意味の両方を含んでいます。共感するかどうかは別として、とにかく他から与えられた情報を正しく理解する、あるいはわかるということです。
 「書」も単に字や文章が書けるということではありません。自分が他に伝達したいことを正確に他人に伝えられる能力ということです。伝達の方法には「読」の場合と同じように、音声言語、文章、数式のほかに非言語的な方法も含まれますし、コンピュータ・リテラシーも必要になるでしょう。
 最後の「問」は、自己の考えや他から与えられる情報について問いを持つ能力です。これまで基礎学力と言われていた読・書・算のうち算を除いたのは、それが不必要だからというわけではありません。すでに書いたように、読・書・問の「読」と「書」には、他から数式の形で与えられる情報を理解したり、自分か他に伝えたいことを数式の形で伝えたりする能力が含まれています。つまり読・書・問という場合の「読」と「書」には、読・書・算の「算」も入っているのです。また、「算」の代わりに「問」を入れたのは、皆さんが自立的な人間として成長するうえで、この能力を身につけることがとくに重要だと思うからです。
 問いには、二種類の問いがあります。一つは、他への信頼に基づく問いで、もう一つは、不信頼を基盤とする問いです。この二つを区別するために前者を「質問」、後者を「疑問」と呼ぶことにします。
 たとえば、「1.2メートルの値段が60円の白いリボンと、0.8メートルの値段が60円の赤いリボンがあります。白いリボンと赤いリボンとでは、どちらがどれだけ高いでしょう」という問題を与えられて、「はじめに両方のリボンの1メートルの値段を求めればいいのですか」と先生に尋ねるのは、先生が正しい解き方を知っていることを信頼してする「質問」です。それに対して、「白いリボンと赤いリボンでは、どうして値段が違うのかな」とつぶやく生徒は、少なくともこの問題に関しては先生を信頼していない。つまり問題そのものに「疑問」を持っているということになります。
 皆さんが自立的な人間として成長するために必要な「問う」能力として、より重要なのは「質問」ではなく、与えられた情報に対して「それは本当ですか」、「なぜそう言えるのですか」と問う「疑問」を持つ能力です。また、そういう疑問を持つための知識と技術です。自分がなにも知らないことについては、「質問」はできても、「疑問」を持つことはてきません。そして社会の情報化が進めば進むほど、皆さんが疑問を持つための知識と技術を身につけることは、一層重要になるはずです。この知識と技術を欠く限り、皆さんは、いろいろな情報メディアから与えられる雑多な情報に振り回されて、自分で考えて自分の行動を決定する自立的な人間になることかできなくなってしまうからです。
 逆に、皆さんが読・書・問の基礎学力を身につけることになれば、さまざまな情報源から、時には矛盾する情報を与えられたとしても、そのすべてを正しいとして受け入れることはしなくなるでしょう。「読」の学力によってそれぞれの情報を正しく理解し、矛盾について「問い」を持ち、それを「書」の能力によって的確に他に伝えることができるようになるからです。
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 最後に読・書・問という言葉が、国語や数学などの知的教科には当てはまっても、音楽や美術、保健体育や技術・家庭などの芸術や技術に関する教科にはなじまないのではないか、という疑問を持つ人があるかもしれません。しかし、基礎学力としての読・書・問は、いわゆる知的教科だけのものではありません。芸術や技術に関する教科でも基礎となる学力です。
 学校教育としての美術や音楽は、生徒を画家や音楽家にするための教科ではありません。保健体育も、スポーツの選手を育てるのが目的ではありませんし、技術・家庭にしても同じことです。これらの教科もすべて皆さんが自立的な人間として成長することを目的としているのです。
 美術についても、音楽についても、また保健体育や技術・家庭でも、それぞれの教科で学ぶことを皆さんか正しく理解し、それについての自分の考えを正しく他に伝えることができ、さらに必要ならば「問い」を持つことができるようにならなければならないのです。ですから基礎学力としての読・書・問は、すべての教科あるいは道徳の授業においても、皆さんに確実に身につけていただきたい学力と言えるのです。
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 校訓として読・書・問という言葉を選ばれた蟹谷中学校の生徒の皆さんが、この言葉の意味を正しく理解して、自立的な人間として成長してくださることを心から願っています。


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